前編:〜目が見えていた頃のサッカー人生、そして高校3年生で病気が発覚し、視力が低下し始めてからの葛藤〜
「自分の中で病気のことをまだまだ受け入れられていない時期もありました」
ーーサッカーは何歳から始めたのでしょうか?
加藤健人氏(以下、加藤):小学校3年生の時ですね。福島県福島県出身で、なかなか周りでサッカーをやる環境ではなかったのですが、1993年のJリーグ誕生の影響が大きかったです。テレビでJリーグの試合を見て、サッカー選手に憧れて、サッカーを始めました。
ーーJリーグ初期に好きだったチームや、憧れの選手などを教えてください。
加藤:やっぱり当時のヴェルディ川崎はすごく好きでしたね。憧れの選手は三浦知良選手でした。あの時のヴェルディ川崎の選手は皆さんカッコ良かったですね。
ーー小学生の頃はどこのポジションをやられていたのでしょうか?
加藤:小学生だったので(ポジションが)固定されているということはあまりなかったのですが、サイドハーフをやることが多かったですね。
小学生時代にサッカーをプレーする加藤氏。がむしゃらなプレーが持ち味だったそうだ。
ーーサイドということはスピードスターのようなプレースタイルだったのでしょうか?
加藤:いや、どちらかというと「がむしゃら」にボールを追いかけるプレースタイルでした(笑)。
ーーそうなんですね。その後、中学校に進学した際はサッカー部に入部されたのでしょうか?
加藤:はい。あまり強いサッカー部ではなかったのですが、キャプテンという役割を任されました。僕自身、サッカーが上手い訳ではなかったのですが、チームをまとめるために頑張っていました。
ーー中学校のサッカー部で思い出に残っているエピソードなどはありますか?
加藤:もっとできたのではないかなと思います。練習も、試合も、今思えばもっと様々なことにチャレンジしてればレベルが上がったのではないかと思いますね。
ーーなるほど。そのような強い意識があったということは、その頃からプロサッカー選手を目指していたのでしょうか?
加藤:小学校の頃はプロになるという気持ちでやっていたのですが、年齢が上がっていくにつれて難しいなという思いが増していきました。
でも、先程言ったような「もっとやっておけば」という悔しい気持ちを中学時代に感じたので、高校では県内屈指の強豪校である聖光学院のサッカー部に入部しました。
ーー聖光学院ではどのようなプレーヤーだったのでしょうか?
加藤:それが、1年生の頃にサッカー部を辞めてしまったんです。県外から有力選手が入部してきたりするほど力を入れている環境と、今まで僕がサッカーをやってきた環境のギャップが違いすぎて、付いていくのが難しくて辞めてしまいましたね。それが最初の挫折ですかね。
ーーそうだったんですね。部員数なども多かったのでしょうか?
加藤:多かったですね。僕のように、最初に辞めていく部員も多かったです。
ーーサッカー部を辞めてからはどのような学生生活を過ごしていたのでしょうか?
加藤:やっぱりスポーツが好きだったので、違うスポーツにチャレンジしましたね。
ーー違うスポーツを始めたんですね。なんのスポーツを始めたのでしょうか?
加藤:ハンドボールです(笑)。友達が一緒に入ったというのが大きい理由ですね。そこからハンドボールにのめり込んでいきました。
ーーハンドボールはどのくらいの期間続けられたのでしょうか?
加藤:高校3年生の最後の大会までやりましたね。
ーー聖光学院のハンドボール部は強かったのでしょうか?
加藤:そうですね。結構強くて、様々な県に試合や遠征に行っていましたね。毎日のように練習をしていた記憶があります。
ーーそうなんですね。では、その時はハンドボールで上を目指したり、ハンドボールを続けるために大学に行くことを考えていたのでしょうか?
加藤:それがですね、高校3年生に上がる前くらいの時期だったのですが、練習中に人同士でぶつかって目が腫れてしまったので、念のために病院に行ったことがありました。
それで病院に行くと、腫れてない方の目の視力がほとんどないことが判明したんです。
ーーその頃に病気が判明したのですね。ぶつかった時から見えずづらくなっていたのでしょうか?
加藤:いえ、自分では全然気づかなかったですね。その後、大きい病院で検査をしたところ、遺伝生の病気だということがわかりました。実は、ぶつかったのが原因ではなくて、半年ほど前から徐々に片方の目の視力が低下していたんですね。ぶつかったことをきっかけに病院に行ったら偶然判明したという感じです。
ーーなるほど。半年も視力の低下に気づかないものなんですね。
加藤:そうですね。利き手や利き足と同じように、目にも利き目というのがあるんです。なので、片方の目が見えづらくなっていても、普通に生活してハンドボールも出来ていました。
そして、その病気自体が、当時の医学では治らない病気で、もしかすると片方の目が見えなくなる可能性もあると医者に言われたので、最初は受け入れることが出来ませんでした。
ーーその後、もう片方の視力も落ちていったのでしょうか?
加藤:はい。高校3年生の時期を過ごして行く中で少しずつ視力が低下していきました。
例えば、学校の中だと、黒板の文字が見えづらくなってきて、少しづつ席の順番が前に行ったりですとか、文字が見えづらくなってきて、文字を拡大する機械を使ったりしていましたね。
でも、自分の中では周りに病気や障がいを持ったことを知られたくなかったので、隠しながら生活していました。
ーーそうなんですね。では周りの友達や生徒はほとんど誰も(病気のことを)知らなかったのでしょうか?
加藤:そうですね。知っている人の方が少なかったです。小学校の頃から学校を休む子どもではなかったのですが、休みがちになってしまっていました。
大変だった時に、(自分から)友達に相談したり、助けを求めたりすることはできなかったです。自分から壁を作ってしまっていました。
ーーなるほど。その後、卒業後の道はどのように考えていたのでしょうか?
加藤:身近に視覚に障がいを持つ方がいなかったので、自分が何が出来て何が出来ないのかがわからなかったんですよね。それで、視覚障がいを持っている方と言えば、という言い方はおかしいかもしれないですが、福島の盲学校に入学したんです。
入学したのですが、自分の中で病気のことをまだまだ受け入れられていないのもありましたし、盲学校に行くこと自体が自分の中で嫌でした。周りに誰もいないのですが、校門に向かう時に誰かに見られているような感じがして、コソコソして過ごしていましたね。
ーー病気がバレないようにという気持ちが強かったのですね。盲学校ではどのようなことを学びに行かれていたのでしょうか?
加藤:マッサージ師や鍼灸師の国家資格を取るためのコースに入ったのですが、僕を含めて(生徒が)3人しかいなかったですね。
年齢が離れている人もいて、目の視え方もバラバラでした。
盲学校だったので、周りの人たちの方が目かと思ったら自分が一番目が悪かったんですよ。それを含めて(盲学校での生活は)ちょっと辛かったですね。
ーー盲学校に入った時は、道具などを使わなくても見える状態でしたか?
加藤:はい。その頃はまだ使わなくても見える状態でした。
その頃は、様々なことに対して受け入れることができなくなっていて、マッサージをすることに対してもそうですが、うまく受け入れることができずにすぐ休学してしまいました。
ーーマッサージ師や鍼灸師の国家資格を取るためのコースに入ったのはどうしてでしょうか?
加藤:視覚に障害を持っている方が国家資格をとりマッサージ師の仕事をするというのが多かったからですね。
病院の先生とかにも相談してマッサージ師の道に進むことにしました。当時は、病気になったばかりで情報も少なかったので、自然とそういう流れになっちゃったという感じですね。
ーー盲学校は入学してからどのくらいに期間で休学したんですか?
加藤:入学してすぐのゴールデンウィークの時期ですね。もう一度考え直して、やりたいことが見つからなかったらまた戻ってきますという形で休学をしました。
高校まで関わっていた人たちは進学して、気軽に遊べるような人たちがいなかったので、いわゆる引きこもりみたいになってしまいました。気軽に外に出歩くのも難しくなっていき、いくら住んでいた地元とはいえ、目が視えなくなる怖さというものがあったのでなかなか家から出ることはできなかったですね。
ーーそうなんですね。今こうやってお話していてとても明るい加藤さんを見ていると、全然想像できないです。
加藤:1日中家にいることが多くて、どんな生活をしていたかと思い出そうとしてもあまり記憶にないんですよね。
ーー本当に心が無だった感じでしょうか?
加藤:そうですね。もう時間が淡々とすぎていったというか、あの時は遺伝性の病気ということもあり多分親にも当たっていたと思いますし、もうどうしていいのかわからない状態でしたね。
ーー盲学校を辞めてからブラインドサッカーに出会うのはもっと後なんですか?
加藤:盲学校を辞めた年の秋ぐらいでした。
ーーでは、ブラインドサッカーに出会うまでは何かをしていたわけではなかったんですか?
加藤:何かしなければいけないということは分かっていたんですが、自分で行動を起こしていたわけではないので見つからないですよね。
ーーその状態から秋にブラインドサッカーに出会ったきっかけはなんだったのでしょうか?
加藤:僕は行動を起こせずに引きこもりがちだったのですが、両親は違って、僕のために何かできるんじゃないかと僕が知らないところで色々探してくれていたんです。
そして、父親がブラインドサッカーという競技があることをインターネットで見つけてくれて、僕に教えてくれました。それが最初でしたね。
今は少しずつブラインドサッカーというスポーツが認知されてきていますが、僕が19、20歳くらいの時は情報も何も知りませんでした。インターネットで検索してみると、アイマスクをつけて、音の鳴るボールでサッカーする競技なんだということくらいしかわからなかったですね。
福島から一番近いチームを探したところ、茨城県の筑波にあるチームを見つけました。そして、父親と2人で茨城まで見学しにいったのがブラインドサッカーとの最初の出会いです。
<中編へ続く>
中編:〜ブラインドサッカーと出会ってからの変化と成長〜「ブラインドサッカーに出会って、夢や目標を持つことができた」
後編:〜バランススタイルと出会ってからのファッションの変化、そして欠かさないバランスタイムズのチェック〜「どれが良くてどれを合わせていいのかはすごい参考にしているのでバランスタイムズは重宝しています」