〜ブラジルにサッカー留学していたキングカズとの出会い、兄弟のような関係に。日本への移住、そして高校サッカー選手権で優勝を飾り、今もなお語り継がれる伝説の“バナナシュート”について語る〜
「満員のお客さんがいて、決勝でゴールを決めて俺の人生が変わった。でも、そこまで辿り着くのは大変だったよ。」
ーー何歳からサッカーを始めましたか?
三都洲アデミール氏(以下三都洲):ブラジルでは生まれた子にはサッカーボールが与えられるんだよね。人口の90%くらいはサッカーをしているから、物心ついた時にはサッカーをしていたよ。
ーークラブに入ったのは何歳ですか?
三都洲:13歳の頃に近くのサッカークラブに入って、すぐにCAジュベントスというクラブの下部組織からオファーがあってそのチームに入団しました。
そこで三浦知良と出会った。ずっとカズと一緒に通っていたよ。
※CAジュベントス:ブラジル・サンパウロ州モオカを本拠地とするサッカークラブ。現在ブラジルリーグのセリエA2に在籍している。
※写真左上が三浦知良選手、左上から2番目がアデミール氏。
ーー“カズとは、三浦知良選手のことですよね?ブラジルで三浦知良選手と出会って仲良くなったんですね。
三都洲:そうそう。俺とカズとパウリーニョという友達3人でよく居たんだけど、パウリーニョが忙しかったから、俺とカズが毎日一緒に通って休みの日もボール蹴ったりご飯食べたりしていたね。
日本の食べ物のことなんて全然知らなかったんだけど、初めてハマったのは梅干しです(笑)。
ーー梅干しにハマったんですね(笑)。三浦知良さんはその時からポルトガル語が話せていたんですか?
三都洲:全然話せてないよ。俺は辞書を引きながら頑張って会話していたね。最初は全然会話は通じなかったけど、なんとか心で通じ合っていた感じはあったかな。
でもカズは覚えるの早いからすぐに上手くなったよ。
ーーそうなんですね。アデミールさんも日本語を少し覚えたりしたんですか?
三都洲:俺も日本語の勉強していたんだけど、途中で嫌になってすぐ辞めちゃったの(笑)。
カズとは同じポジションでもあった。カズは一つ年上で、俺は一つ上のチームにも呼ばれていたからライバルになったんだよね。俺はカズとライバルになりたくなかった。
カズとはずっと一緒にボールを蹴って、高め合ってきた仲なので、本当に兄弟のような関係です。
日本でサッカーをやることになったのもカズのお父さんに誘われたからだしね。
ーー何歳の頃に誘われたんですか?
三都洲:16歳の頃だね。同じタイミングでフランスとコロンビアのクラブから誘いもあった。
ーーなぜ日本に来ることを決めたんでしょうか?
三都洲:どこでもいいから早く海外でプロになって家族のことを養ってあげたいと思って、プロへの道が近いところに決めた。
ーープロになれるならどこの国でも良かったんでしょうか?
三都洲:そう。正直フランスでもコロンビアでもどこでも良かった。家族を早く楽にさせてあげたかったから。
でも、カズの関係で海外(日本)に行くとなると俺の親も安心するでしょ?
カズのお父さんも居て心強かったし、その部分は日本を選んだポイントの一つでもあるよね。
ーーなるほど。三浦知良さんの姿を間近で見ていて日本に対する良いイメージもあったのではないでしょうか?
三都洲:そうそう。良いイメージがあったね。そして、カズと一緒にサッカーをやって、兄弟のように過ごしていたからこそ、俺もカズが体験してることと同じような環境で戦いたいなと思ったよ。
でも、1年目はキツかったよ(笑)。
ーーどんなことがキツかったんですか?
三都洲:言葉もそうだけど、食べ物も合わなかったし、ホームシックにもなった。それまで家を出たことがなかったから、やっぱり寂しかった。
ーー日本では寮生活だったんですか?
三都洲:最初は寮生活だったんだけど、寂しすぎて監督の家に下宿することになったね。
ーーなるほど。高校選びはどのように決めたのでしょうか?
三都洲:僕を欲しいチームがいくつもあった中で、クジで東海大一に決まったの。(東海大学第一高等学校は1999年に東海大学付属翔洋高等学校に名称変更)
ーークジで決めたんですか?!どの高校もアデミールさんのことが欲しかったんですね。
三都洲:そうそう。静岡学園も清水商業も欲しがってくれた。
カズの叔父さんは居酒屋を開いていて、その居酒屋で色々な高校の監督が集まってクジ引きをしていたのを覚えているよ(笑)。
ーーそんな方法で入る高校が決まっていたのは驚きです。アデミールさんの意見も少しは反映されるんですか?
三都洲:ないないない(笑)。もう全部向こうで決まっていたね。会話もわからないし、クジ引きの時の会話もわからなかったから。
でも俺は日本でプロになって稼ぐっていう目標が叶えられればなんでも良かったんだよね。
ーーそうなんですね。高校が決まって、東海大一のサッカーはどうでしたか?
三都洲:1年目はキツかったですね。東海大一は毎年優勝候補のチームだったから。
当時は、静岡を勝ち上がった高校は全国で3位以内になる時代。でも、俺が入る前まで東海大一は毎年静岡県予選の準決勝か決勝で負けてた。
俺が入った1年目は清水商業にPKで負けたの。俺もPKを外した(笑)。
それで2年目はかなり気合いが入ったね。そしてその年負けなしで静岡県予選で初優勝したんだよね。
ーー日本のサッカーに順応するために努力したことはありますか?
三都洲:やっぱり「体力」だね。走るサッカーに慣れるのはキツかった。
今でも思うけど、練習のやり過ぎは良くないと思う。年齢に応じた練習をするべき。
だから日本はユース年代までは強いのに、W杯で上にいけない。それはすごく思うよ。
ーー当時のサッカー部がやはりキツい練習が多かったんですかね。
三都洲:そう。キツくて頭が真っ白になった。「イタズラ」「技術」などのサッカーの面白いところが磨けないし、ボールが来ても面白いことを考える余裕がなかったよ。
ーー日本高校サッカー界で初めてのブラジル人留学生なので、尚更そう感じたのかもしれませんね。
三都洲:そうだね。「ブラジル体操」を日本で初めて披露したのは俺なんだよ。国体選抜でブラジル体操をやっていた時に、他の県選抜の監督から「教えてくれ」と言われて、そこから広まっていった。
※ブラジル体操:ジョギングしながらリズムよく足を回したり開いたりすることで、関節の可動領域を広げる体操のこと。プロからアマチュア、ジュニア世代まで多くのサッカークラブのウォーミングアップに採用されている。
ーーそうなんですね。高校サッカーを経験した人は絶対にブラジル体操をやっていたと思います(笑)。
三都洲:一つ面白いエピソードがあってね、俺が初めて東海大一の練習に来た時、みんなはサッカーをやっているのに俺だけ自転車を渡されたの。
それは、監督の家からグラウンドまで片道50分〜1時間かかる環境で通わなきゃ行けなかったから、まず自転車に乗る練習をさせられたんだよね(笑)。
その2日前に監督から「自転車乗れる?」って聞かれて、自転車乗っている人がカッコよく見えていたから「自転車好きだし、乗ってみたいな」って言っていたんだよね。
ブラジルでは自転車に乗ったことが無かったから、何回も転んで、何日もかけてやっと乗れるようになった。自転車に乗らないとサッカーの練習に参加出来なかったからね(笑)。
ーーそんなエピソードがあったんですね(笑)。高校サッカー2年目はどうでしたか?
三都洲:すごい厳しい練習が増えた。そして俺に対しても厳しくなった。「帰れ」と言われることもあったね。
なんでかというと、その年優勝出来なかったら監督解任だったから。みんな必死になっていたね。
俺も、高校サッカーは2年目だけど、年齢制限でその年で卒業だったから焦っていたよ。
ーー追い込まれていた年に優勝出来たんですね。
三都洲:静岡県大会の前も練習試合でずっと勝ってて、県予選の決勝でも清水東に勝てた。
全国大会の前に練習試合があって、そこでも「負けたら全員坊主」とか言われて(笑)。
走って走って、それで全国大会に出たら優勝できて得点王にもなれた。
ーー全国大会はやはり厳しかったですか?
三都洲:俺にとっては厳しかったな〜。優勝旗を持って帰らなければ意味がないと思ってたから。
2位や3位では全く意味無くて、優勝してそこからオファーがあってやっとお金が稼げる環境に行けると思っていた。
だから決勝戦が終わった瞬間に「ハァ〜」って力の空気が抜けて、地獄から出たような感じになったよ。そして静岡に帰って、パレードに参加して本当に幸せだなって思った。
日本の高校サッカーはすごいなって。
ーー日本の高校サッカーは、他の国では見ることのできない文化ですもんね。
三都洲:そうそう。あんなに盛り上がるのはびっくりした。スタジアムのゲストにカズが来てくれて、スタンドにもマラドーナの全盛期の相棒だったカレカが観に来てくれていたんだよね。
そして満員のお客さんがいて、決勝でゴールを決めて俺の人生が変わった。
でも、そこまで辿り着くのは大変だったよ。もう1回やれって言われても無理だよね。
※カレカ:元ブラジル代表ストライカー。1986年メキシコワールドカップでは、5ゴールを挙げ、得点王のリネカーに次ぐ得点ランキング2位となる活躍を見せた。1987年に加入したナポリでは、マラドーナ氏と強力なコンビを組み、相棒として君臨。そして1993年には当時JFLの柏レイソルに加入。創世記のレイソルを、レジェンドとして支えた。
ーー決勝のバナナシュートなどで、人気があるのは自分でも感じたんですか?
三都洲:そうだね。電車乗ってもキャーキャーなるし、静岡にいると外歩けなかった。息子に説明しても大袈裟って言われるけど、ネイマールが日本を歩いているのと同じ感じだったの。
ブラジルに帰っても俺のことを知っている人がいたんだよね。JALが高校サッカーと関係があって、機内で試合を流していたらしいの。それでブラジルでも有名になってた。
※バナナシュート:第65回全国高校サッカー選手権決勝の国見高校戦で決めたFKの呼称。国見が築いた6人の壁の外側を巻いて決まったバナナシュートは今でも高校サッカー選手権の語り草となっている。
ーーすごいですね。ブラジルからしても、日本に留学しているブラジル人は珍しいですもんね。
三都洲:珍しいね。今ではたくさんブラジル人や外国人がいるけど、当時は本当に「外人がいる!」って不思議がられていた時代だった。
ーー高校サッカーをやって良かったことはありますか?
三都洲:限界まで身体も頭も追い込んでキツかったけど、やっぱり精神的な部分は学ぶことが多かった。
人生にはキツいことも多いけれど、高校サッカーの時を思い出せば耐えられたから、そこは良かったと思う。子どもにやらせたくはないやり方だけども、プラスになったなって思うこともあるよ。
あと、楽しかった。あんなに大勢の観客の前でプレーできることは中々ないからね。
ーー今の時代の高校サッカーを見て感じる魅力はありますか?
三都洲:今はJクラブの下部組織も出来てきて、上手い選手が高校サッカーとユースサッカーで分散されているでしょ。俺の時代は上手い選手が全員高校サッカーに居て、その全員と戦わなきゃいけなかったから、そこは昔と違う魅力だと思う。
下部組織は海外との交流も盛んで、食事や身体の作り方なども正しい知識を教えているから、その流れがだんだん高校サッカーにも来ているんじゃないかな。「高校サッカーは苦しまなければいけない」という考えはまだ完全に消えてはないけれど、下部組織と戦ったり関わったりすることで、少しずつ良い方向に変わってきているよね。
ーーそうですよね。高校サッカーも変わってきていますよね。
三都洲:そう。でも、まだ変わらない指導者がいるんだよね(笑)。キツい練習でプロになった人もいるけど、あれは元々持っていた技術や才能でプロになっているだけで、キツい練習をしたからプロになったということはないと思う。
ーー最近では、(元鹿島アントラーズの)カイオ選手など、ブラジル人留学生が増えていますが、それもアデミールさんの影響が大きく影響しているんですかね。
三都洲:そうだね。俺の後から増えたのはあるよ。「ブラジル人選手を取ったあの静岡の高校が優勝した」となれば他の高校も続くからね。
あとは、やっぱり話題性があるから、そこも含めて多くなっていると思う。
ーー高校サッカー選手権も今年で第100回を迎えましたが、今年の選手権を戦う高校生たちに一言お願いします。
三都洲:昔は、ユース年代で海外の強豪クラブと試合をする機会などはなかった。でも、今は向こうから日本に出向いて試合をしている時代。
それは試合を見るサッカー関係者も同じで、多くの人が高校サッカーを見ているから、その分チャンスが多いと思う。だから一生懸命やって楽しめば、絶対に誰かが見てくれる。思いっきりやってほしいね。
ーーありがとうございます。最後の質問です。アデミールさんにとってサッカーとは?
三都洲:ブラジルの家族をサポートすることもできた。そして今の幸せな家族と出会えることもできた。それは全てサッカーのおかげだと思っている。サッカーに感謝しているよ。サッカーを愛している人たちにも感謝しているね。
<完>