中編:〜ここでしか聞けないザックジャパンのエピソード、諦めずにやり続けることで通訳として掴んだW杯という夢舞台〜
「サッカーを経験していて、サッカーに携わった人間からしたら感慨深いというかね、最高の舞台ですよ。」
ーー前編のあらすじ
イタリアのセリエAでプレーすることに憧れて、中学3年生の時にイタリアへサッカー留学した若き日の矢野氏。レベルの違いに驚き、差を痛感したが、やり続けているとサッカーの自信も付いてきて、言葉も話せるようになってきて、良い方向へ変化していったという。最終的には4部と5部を行ったり来たりだったというイタリアでのサッカー人生だったが、同時平行で続けていたマネジメント会社でのアルバイトで経験した2002年日韓ワールドカップでの仕事がきっかけとなり、サッカーを辞めてサッカーに携わる仕事に絞ることを決めた。その後、会社での繋がりもあって、セリエAのトリノに移籍してきた大黒将志さんの通訳に。通訳文化が浸透していない海外リーグで、最初はチームに受け入れてもらえなかったというが、出過ぎた真似をせずに、失礼がないように通訳をするスタンスを心掛けたとのこと。そして、奇遇にもトリノ時代の監督が後の日本代表監督のアルベルト・ザッケローニ氏。トリノでは8ヶ月しか共に仕事をしなかったが、2010年に日本代表監督に就任したザッケローニ氏にとって“日本人通訳”と言えば矢野氏だったのだろう。白羽の矢が飛んできた矢野氏は、ザッケローニジャパンの通訳に就任した。
ーーザックジャパンの通訳になって、選手側ではなく監督側について選手たちに伝えるという立ち位置に変わったと思うのですが、ぶつかった壁や、努力したことは何でしょうか?
矢野大輔氏(以下矢野):今でも覚えてますけど、最初のミーティングは緊張しましたね。最初の就任会見とかもすごくプレッシャーはありましたけど、ミーティングはそれ以上でした。
(通訳に就任した)たった1カ月前まで、僕は南アフリカワールドカップを外から応援していたわけですよね。そのメンバーが目の前にいるわけだから。それまでの過程でもちろん選手と交流もありましたけど、それでもすごく緊張した覚えがありますね。
ーーそうなんですね。急にチーム内の人間という立ち位置になりますもんね。
矢野:はい。でも大変だったことはそのくらいで、後は最初の合宿が終わった頃には少し慣れて来ましたね。
ーーなるほど。僕とかは報道とかでしか分からない部分はあるのですが、ザックジャパンのチーム内の雰囲気は良好なイメージがあります。その部分について実際に中で感じたことなどはありますか?
矢野:雰囲気は良かったですよ。ザックジャパンは、南アフリカW杯でベスト16まで躍進した岡田ジャパンのあとで、ザックさんに代わって世代交代が進んでいくフェーズで日本サッカー界に勢いがあるタイミングだったんですよね。
そしてすぐアルゼンチンに勝って、アジア杯でも優勝して、初めから流れが良かったんですよ。チームも選手も人気がありましたよね。
矢野:そういう中でザックさんのことをリスペクトしているのは選手全員からも感じられたし、ザックさんも当然選手たちをリスペクトしてる。そういう中で仕事をするのは楽なんですよね。
ーー良い関係性のチームでやるというのは、通訳をしていても楽しいですよね。
矢野:そうそう。それぞれの役割の尊重もしっかりあって、あとは監督についていこうぜという感じでしたね。
ーー実質4年間やったと思うのですが、その4年間の中で、ギスギスしていた期間とかはないんですか?
矢野:ギスギスというのはないけど、やっぱり4年の期間というのはすごく長くて、ずっと良い雰囲気が続くことはあまりないです。
最初は新鮮味というか、新しいチームで新しい大会や予選があって、やってる方も楽しい気持ちが大きいと思うんですよ。それが3年目くらいになってくると、やり方も一緒でメンバーも固まってくる時期がどうしてもやってきます。
ちょうどそのくらい(3年目)の時期の2013年頃に、選手内で「こういうサッカーしたい」という意見は多少出てきて、監督に意見をぶつけるとかはありましたね。
ーーそのような状況の時、選手から矢野さんに「こう伝えてくれ」とストレートに言われるのか、「こう伝えようと思うんだけどどうかな?」みたいな相談ベースで言われるのか、どちらが多いですか?
矢野:僕はコーチではないから、そういう意味では「監督と話す時間を今晩時間を取りたいんだけど、とってもらえますか?」とかのコミュニケーションが多かったですね。
ーーなるほど。相談みたいなのは一切矢野さんにはないんですか?
矢野:ないですね。僕自身、コーチなどの立場にはなかったから、むしろ「相談は僕にしないで監督に聞いて」というスタンスでいました。
ーーそうなんですね。通訳をしている矢野さんといったら、試合中にベンチとかで大きくガッツポーズとかしてるのも有名ですよね。
矢野:有名ですか?(笑)。
ーーめちゃくちゃ印象に残っています(笑)。職業柄、通訳は印象に残りづらいところがあると思うんですけど、矢野さんの場合は印象が強くあるんですよ。そういう部分は、単純にサッカーに関われていることが自分が楽しいという感情の表れなんですか?
矢野:僕もずっとサッカーやってきた人間だから、参加しちゃうというか自然と試合に入り込んでいっちゃうんですよ。通訳という仕事としてどうかとは思うけど、やっぱり自分はチームの一員だと思っているので、自然なことですよね。
ーー矢野さんが試合に入り込んでガッツポーズしている姿を見ていると、通訳になりたい人も増えるんじゃないかと思います。
矢野:そうだとしたら嬉しいですね(笑)。
結局、ベンチから声が出てるとか、ベンチからポジティブな声掛けが出来ているチームっていうのは、クラブレベルだけでなく、代表レベルでも良いチームなんです。そのイメージもあったので、試合に入り込んでいましたね。
ーーそうですよね。すごく良いことだと思います。せっかくお話を伺っているので、ここでしか話せないエピソードを聞いてもよろしいでしょうか?
矢野:全然いいですよ。
ーー4年間の中で、何か印象に残っているエピソードがあれば教えてください。
矢野:長谷部はザックジャパン時代ずっとキャプテンでしたよね。1回、長谷部がキャプテンから降りたほうが良いのではないかと言い出した時があったんです。
正しい所属クラブは覚えてないですけど、 ヴォルフスブルクかニュルンベルクの時に、クラブでは出れないけど代表では出れる時期が少しだけあって、その時に長谷部が監督の部屋に行って、「こういう状況だし、キャプテンを辞めた方がいいんじゃないか」と。
ーー長谷部選手が自分からキャプテン辞任を申し出たということですか?
矢野:そうそう。自分から。話のニュアンスとしては、「もし僕がキャプテンだから試合に出てるとしたらそれはフェアじゃない」という意味も含まれていました。
そういった考えをザックさんに話しに行ったことがあって、するとザックさんは「別にキャプテンだから出ているわけでもない。ただ、キャプテンはハセしかいないからこのまま引き続きやってくれ」とおっしゃってました。と同時に、ピッチ内のことは実力順だからそこは明確に判断していくと。
ーー長谷部選手も、ザッケローニ氏もフェアでかっこいい行動ですね。
矢野:そうですよね。あとは、本田圭佑もよく監督と会話をするタイプなので、意見をぶつけ合うということはよくやっていましたね。「自分はこう思ってる」「こういう風にやっていきたい」「そのためにはどういうふうにしたらいいですか?」というのをザックさんに聞くわけですよ。面白いエピソードではないですが、やっぱり目標に向かって一直線に進む姿勢とかすごく印象に残っていますね。
ーー本田選手のそのようなエピソードはたしかにイメージできますね。ザックジャパンの通訳時代の1日の生活スタイルというのはどのようなスケジュールなのでしょうか?
矢野:そこ、謎ですよね?そもそも代表チームのスタッフは代表活動以外で何やっているの?って思いますよね。
ーー謎です。ずっとそこが気になっていました。詳しく聞きたいですね。
矢野:詳しく話しましょう(笑)。
スタッフ陣は、基本的に週末にJリーグの視察を行います。そして月曜日に定例会議というのがあって、週末に見てきた試合の中で、代表の大枠に入っている選手の報告や、枠に入っていなくても面白い選手が出てきたことの報告をし合います。
その後、火曜日とか水曜日に、フィジカルコーチ同士でミーティングしたりしますね。
ーーなるほど。同じジャンルの部門で意見をぶつけ合っているんですね。
矢野:そうです。それは日本人のフィジカルコーチとイタリア人のフィジカルコーチがいたからなんですけどね。あとは、栄養の部分でどんなもの食べさせたとか、どんなサプリ使うとか、そういったミーティングが入ったりとかもします。
そして、監督は毎週火曜日か水曜日にメディア対応する時間がありますね。その他には、協賛企業へご挨拶にも行きます。
また、水曜日に国内のカップ戦が入ると視察に行ったりしますね。基本的に木曜日か金曜日に1日休みがあって、また土日視察みたいな感じです。
ーーそういうスケジュールなんですね。矢野さんは、ずっと監督に付きっきりですか?
矢野:もちろんです。監督とは同じマンションに住んでいたので、午前中は毎朝一緒にカフェしてというところから1日が始まっていました。
ーー同じマンションに住んでいたんですね。日本代表から指定された家だったんですか?
矢野:いや、全然。就任する時、ザックさんはもうそこに住むのは決まっていたんだけど、僕も結局ずっと一緒にいるならと思って同じマンションを選びました(笑)。
ーーたしかに、そっちの方が楽ですよね。
矢野:そうなんですよ。だから同じところに部屋を借りました。
何もスケジュールがない時は2人で1、2時間カフェに行ってなんてことない話をして過ごすことも多かったです。
ーー基本的にはずっと一緒にいたと思うんですけど、ザッケローニ氏が一人でどっかに行く時もあるんですか?
矢野:ありますよ。全然あります。
ーープライベートには着いて行かないんですね。
矢野:そうですね。必要であれば行くというスタンスでした。
ザックさんも、ずっと僕と一緒にいるというのもきついじゃないですか(笑)。
だから、中目黒の桜を見に行くとか言って、1人で散歩しに行ったりとか全然ありましたね。
ーーたしかに四六時中一緒にいる必要はありませんよね。
矢野:はい。だから僕も、家族と一緒に過ごす時間を取ることが出来ました。
ーー代表活動期間中というのはどういうスケジュールなんですか?
矢野:もう、ずっと忙しいですよ。朝から晩まで。
ーー流石に監督と同じ部屋じゃないですよね?
矢野:そこは違うよ(笑)。同じ部屋じゃない。
ーーそうですよね。急に選手をここに呼んでくれとかそういう
矢野:まず朝食があって、その後トレーニングに行くまでに、メニューとかをコーチたちが話しするから、一緒に入って説明したりします。そしてトレーニングをやって、ランチがあります。
ランチも、ザックさんは選手全員が見渡せるところに座るんですよ。選手の表情とかもチェックしているので、僕も一緒に横にいて話しながらご飯食べます。午後もミーティング続きです。
他には、午前中基本的にミーティングで、午後練習、練習終わって食事して、次の日の為のミーティングとかも入るんですよ。分析官も来て、次の対戦相手の特徴とかの話を始めるので、それももちろん一緒にやります。そうこうしていると気付いたら夜が来てる感じでしたね。
夜のほんの少しの自由な時間に、日記を毎日つけてました。それが後に書籍になりました。
ーー超過密スケジュールですね。日記を書く時間と寝る時間以外は自由な時間が無いんですね。
矢野:そうです。トレーニング以外の時間もずっと何かしらしていました。
ーーザッケローニ氏のすごいところというのは、矢野さんから見てどういう部分ですか?
矢野:やっぱり経験の部分ですかね。だけど、ザックさんのすごいところは「損して得取れ」というところだと僕は思うんですよ。あまり目先の利益にとらわれるような人ではなくて、我慢をするタイプ。
例えば吉田麻也選手は、最初は2011年のアジアカップの時にメンバーに入って、「この選手良い」となって、それでザックさんが4年間使い続けたんですよ。最初の頃はやっぱり若さなりのミスも色々出ました。批判されている時期もあったりね。
それでも、信念を持って「いつか日本代表を背負う男となる」という期待もあって吉田麻也を使い続けていました。今となっては不動のキャプテンですから。そういう先見の明というか、我慢し続ける力はすごいと思いますね。。
ーーそうなんですね。ザッケローニ氏が1番期待していた選手というのは矢野さんから見て誰だったんですか?
矢野:ザックさんが1番期待していたのは家長(家長昭博)でした。
ーーそうなんですか!それは驚きです。
矢野:そうそう。家長は本当に期待されていて、遠藤(遠藤保仁)の次は家長と思っていたくらいです。
本当に良い選手だということで、結構親身に話しましたけど、ザックさんがいる時代では定着はしなかったですね。
ーーなるほど。面白いですね。そういう話はなかなか聞けないですから。
矢野:今野(今野泰幸)とか、吉田麻也とかもちろん内田(内田篤人)とか、試合に出ていたメンバーはね、もちろんザックさんは好きでしたよ。だけどやっぱり1番期待していたのは家長でした。
ーーそうなんですね。トレーニングの時、矢野さんでも理解できないような変わったメニューとかはありましたか?
矢野:もちろんありましたよ。それでもしっかり伝えるのが通訳の大切なところで、そのために必要なことを一言で言うと「準備」ですよね。
特にクラブチームの通訳は、監督の通訳ではなく、一選手の通訳だから、限られた時間の中でどれだけ伝えるかというのが最大のテーマでした。
そう考えると、ザックさんの時は、一緒に視察に行った際に、隙間時間がいっぱいあるのでその時間に様々なことを聞いてインプットしていました。
ーーなるほど。理解力を深めていって、練習の際は事前に準備していたんですね。
矢野:そうです。サッカー観を擦り合わせるという言い方が正しいですね。生意気ですが(笑)。
ーーそうなんですね。ザッケローニ氏の通訳時代に1番嬉しかったことというのはどの場面ですか?
矢野:たくさんありますよね。
ーーその中でも1番を…(笑)。
矢野:むずかしいですね(笑)。 アジアカップで優勝したことも嬉しかったですし、アルゼンチン、フランス、ベルギーとかに勝ったし、アジアカップも東アジア選手権も優勝したし、色々ありますよ。
嬉しいとか報われたなということはありました。ワールドカップが終わって、最終的には望んだ結果を得ることはできなかったんだけど、ザッケローニジャパンの4年間が終わって、ブラジルで最後5、6時間スタッフだけの時間があったんです。
その時に、ザックさんと日本代表の合宿所の周りを散歩して「4年間本当に大変だったな、ありがとう。」みたいなことを言われたんですよ。その時に、やってきてよかったなと思いました。
ーーそれは結果では判断できない嬉しいエピソードですね。
矢野:まあ、そうですね。でも、やっぱりアジアカップ優勝じゃないですね、印象的なのは。
あとはワールドカップも決めた試合もすごく嬉しかったし。
ーーなるほど。続いては1番悔しかったことを教えてください。
矢野:これはもう、大目標としていたのはワールドカップじゃないですか。だから、そこで思ったような結果がチームとして出なかったというのは、一応僕もチームの一員だったのでとっても悔しかったです。
ーーワールドカップ中は、1、2戦目の結果によってチーム状態とか雰囲気とかちょっとずつ悪くなっていったのかなと思うのですが、実際はどんな感じだったんですか?
矢野:いや、もうみんな前向きにやってましたよ。それまでと大きく違った問題というのはないけど、何が違うって舞台の大きさと出てくるチームの本気度。そんなに簡単にいかなかったという話ですよ。
ーー矢野さん自身も小さい時は学生までプロを目指していて、W杯に出ることは夢だったと思います。それを実際に通訳という立場で体感した時はどういう思いでしたか?
矢野:サッカーを経験していて、サッカーに携わった人間からしたら感慨深いというかね、最高の舞台ですよ。
みんなW杯に行くためにやっているんです。昨日も、日本代表時代のチームドクターとご飯を食べたんです。そのドクターもサッカーを元々やっていて、今はドクターという立場でW杯に2回行ってるんですけど、選手じゃなくてもワールドカップを目指せるという事を伝えて行きたいな、と先生と話した時に改めて思いました。そういう意味では、諦めなければ、好きで続けていれば、きっとどこかで誰かが見てくれているんだなと感じますね。
ーーやはり感慨深いものはありますよね。ザックJAPANの通訳時代に1番思い出に残っている事、忘れられない事はなんですか?
矢野:いっぱいあります!難しいな(笑)。
印象に残っているのは、ウズベキスタンでの遠征でのエピソードです。僕はイタリア語と日本語は話せるんだけど、現地(ウズベキスタン)の言葉は分からないでしょ。そこに、僕が通訳した日本語を現地の言葉に訳してくれるコーディネーターの方がいたんですよ。その方は、すごく優秀で日本語がとても上手なんだけど、あまりサッカーに詳しくなかったんです。
試合前日の監督会見の時に、記者の方から「岡崎・本田・香川」の3−4−3はありえるか質問が出ました。ザックさんは、「明日3−4−3を使うかまだ分からないな」みたいな返事をしたんですよ。
僕は、ザックさんが言った事をそのまま日本語にしますよね。すると、現地のコーディネーターの方が訳している時に、現地の記者の方たちが、え?あれ?みたいな雰囲気で会見場が騒がしくなり始めたんです(笑)。
どうしたのかな、と思って、後に聞いたら、「明日のゲームで岡崎とか本田とか香川を使うか分からないし、それこそ、“サンヨンさん”を使うかも分からない」って訳しちゃったんですよ。意味が分かりますか?
ーーどういう事ですか?
矢野:フォーメーションの3−4−3じゃなくて、名前がサンヨンさんだと思って訳しちゃったんです。
それを聞いた現地の記者が、日本代表に”サンヨン”って選手居たっけなって一斉に探し始めたんです。それが今でも忘れられない出来事ですね(笑)。
ーー理解しました(笑)。
矢野:あとは、W杯予選でタジキスタンに行った時に、タジキスタンの会場では試合のチケットの半券が宝くじになってて、一等が車だったんですよ。観戦しに来た人は、試合が終わった後に発表があって、誰かが車を貰える。国が変われば色々な文化があるんだなって思った出来事です。
ーーサッカーを見て車が貰えるというのは面白いですね!今も同じ文化なのでしょうか?
矢野:どうなんだろう、今は分からない。あとは、フランスに行った時に、ポリスエスコートというのがあって、代表のバスが通ると全部道を空けてくれるんです。なかなかできない経験だなって思いましたね。
ーー貴重な経験をされていますね。2014年W杯が終わって、その後は、結構長らくフリーの期間が続いたのですか?イタリアの6部のクラブの監督に就任したニュースを目にしました。
矢野:2014年のW杯が終わって、その後2年くらいは日本にまだ居たんですよ。ただ、籍だけは今の会社に戻して、サラリーマンとして仕事をしながら本を出したり、取材を受けたりしていました。
このまま日本で生活するか、イタリアに戻るかって悩んでいた時期ですね。結局、2016年の1月にイタリアに帰りました。
<後編へ続く>