前編|父に三渡洲アデミール、従兄弟に三都主アレサンドロを持つ、三渡洲舞人の生い立ちに迫る。〜10歳で単身ブラジル・サンパウロFCへ入団〜
【サッカーのあるファッションライフを送るプロフェッショナルに迫る】今回は、プロサッカー選手からモデルへ転身し、バランススタイルでモデルを務める、モデル・マイトさんにインタビューしました!
マイトさんのお父さんは、元サッカー選手で現在はサッカーコーチの三渡洲アデミールさん。三渡洲アデミールさんは、ブラジル人留学生として東海大学第一高等学校(現在の東海大学付属静岡翔洋高等学校)に編入。1986年度の第65回全国高校サッカー選手権大会の決勝戦で、後に伝説となるFKで先制点を上げ、優勝。このFKは「バナナシュート」と呼ばれ、今でも語り継がれるほど注目を集めました。
そんな三渡洲アデミールさんと日本人の母・摩紀さんの間に生まれたのが、三渡洲舞人。サッカー大国ブラジルの血を引き、生まれた頃からサッカーが身近にあったマイトさんは、ブラジルへサッカー留学の経験を持ち、自身もプロサッカー選手に。引退後は、父親譲りのルックスとスタイルの良さからモデルへ転身。
マイトさんの幼少期からサッカー選手になるまで、引退後のモデルについてたくさんのお話を聞きました!今まで話したことのない、過去の挫折した経験や、これからのマイトさんの展望についても盛りだくさんの内容となっております!お父さんと2ショット、ブラジル・サンパウロFCでの貴重なお写真など、バランススタイル独占でお届けいたします!!
ーーまず、サッカーを始めたきっかけをお伺いしてもよろしいでしょうか?
はい、僕の父がサッカー選手だったので、その影響を受けてサッカーを始めましたね。
ーー何歳から始めたのでしょうか?
父(三渡洲アデミール)が清水エスパルスに所属していた時ですね。当時僕が幼稚園児の時に、父が、同じチーム(清水エスパルス)に在籍していた元イタリア代表のマッサーロさんと2人で幼稚園に来てくれて、園児みんなにサッカーを教えてくれたのがはじめだったのかな思います。
ダニエレ・マッサーロ:元イタリア代表FW。現役時代、ミランやフィオレンティーナ、ローマなどで活躍後、清水エスパルスへ移籍。1996年現役引退。
▲ 当時1994年
マイト:2歳、父:26歳
ーーお父さんの話が出ましたが、元サッカー選手のお父さんとの思い出はありますか?
そうですね。小さい頃はよく試合に連れて行ってもらっていて、エスコートキッズとして手を繋いで選手入場に参加していました。その当時、Jリーグが開幕して間もない頃でとても注目されていたので、小さいながらにも凄く熱狂的な空気を肌で感じた記憶があります。
三浦知良選手やラモス瑠偉さんも普通に家に来てました。当然のように高級車を乗ってやってくるわけで。憧れの選手たちが、当たり前のように僕の周りには居て、当時はなんとなくは凄いことなんだろうなと思ってはいましたが、大人になってどれだけ凄いことかと認識しました。今ではとても良い思い出です。
ーー今もお父さんと仲が良いと思うのですが、大人になってからもサッカーの話とかはするのでしょうか?
僕自身が引退してからは、お互い観る側同士だから、話が弾みますね。どちらもサッカー選手だったからこその目線で話せるので、内容も濃くて熱いですよ(笑)
ーー親子でサッカー選手って中々いないですよね?
いやいや、意外といますよ。マリノスの水沼選手なんか有名ですし、ヴィッセル神戸で去年日本代表にも選ばれた前川選手もそうですよね。
ーー小さい頃から周りにサッカー選手がいる環境だったことがサッカー選手を目指すきっかけになったのでしょうか?
それもありますが、従兄弟である三都主アレサンドロ(アレックス)の影響がすごく大きかったです。最初はJリーグの選手だった父をかっこいいと思っていましたが、身近な選手であるアレックスが日本代表のユニホームを着て活躍していることには、とても興奮しました。
それで自分も日本代表の青のユニホームを着てみたいなって気持ちが芽生え、本格的にサッカー選手を目指そうと思いました。
三都主アレサンドロ:元日本代表・MF。1997年に清水エスパルスに入団。2001年に日本代表に選出され、日本代表として日韓W杯、ドイツW杯に2大会連続で出場。
▲ マイト:写真後方左から3番目
▲ マイト:写真1番前
ーー幼稚園で(サッカーを)始めた時はスクールのようなチームに入ったのでしょうか?
幼稚園にサッカー部のようなチームを作ってもらい、それからみんなで集まってサッカーをやり始めました。
僕は、東海幼稚園に通っていたんです。父が東海第一という、幼稚園から高校、大学まで一貫してある学校だったので、その系列の幼稚園でサッカーをしていた感じです。父は当時、黒と黄色のシマシマのユニホームの高校で、幼稚園児の僕たちも高校生と同じユニホームを着てサッカーをしていました。
▲ 同級生の中で、頭ひとつ大きいマイト
ーー小さい頃から背は大きかったのでしょうか?
背は大きくて、でも太ってましたね。肌は真っ白で、走るのが遅かったです。今とは違うし想像つかないですね(笑)。
ーー小さい時からサッカー選手になるのが夢だったのでしょうか?
はい、そうですね。物心ついた時からサッカー選手になるのが夢になっていました。
ーーやっぱり周りの環境が1番大きかったのでしょうか?
周りの影響は大きかったです。余談なのですが、僕が小学生のとき、日韓W杯前に当時代表選手だった小野伸二選手が父に挨拶しに来たんです。その時、小野伸二選手に向かって「このお坊さん誰?」って言ったそうです。そこにいたみんながすごく笑っていたことは覚えていますね(笑)。その後です、W杯に出ていてすごい人だったんだなって実感しました。こんな風にいつも周囲にはスター選手が当たり前のようにいたんです。
ーーそれはすごいエピソードですね(笑)。その後、サッカーを続けて、海外でもサッカーをしていたとのことですが、学生時代のサッカーについて教えてください。
小学校5年生まで、清水FCという静岡の各チームから選ばれた選抜チームでサッカーをしていました。そして小学校5年生の時に、清水FCの選手としてブラジルのサンパウロFCと試合をしました。
その試合で、サンパウロFCの監督の目に止まって、「あの子誰だ?」とスカウトされました。父がポルトガル語を話せたので、監督と試合後に直接話していて。ブラジルへ行くのには、本当は保護者も行かなきゃいけないのですが、親以外にブラジルに家族がいればいいのです。僕は親戚がブラジルにいたので、行くことには問題はなく、話を進めることができました。
僕はブラジルと日本のハーフだし、ブラジルに住める環境があるんだったらと、父から「条件も合うし、絶好のチャンスだからマイトをブラジルに行かせたい」という気持ちを伝えられ、僕も「サンパウロFCに行きたい」と意を決して、ブラジルへ飛び立つことになりました。
ーーそうだったんですね。お父さんの関係でブラジルに行ったのだと思っていました。
小さい頃は父の移籍でブラジルに行っていたこともあったみたいなのですが、自分の力で(ブラジルに)行ったのは当然初めてで。あっ、この話も初公開です(笑)
▲ ブラジル・サンパウロFCでのマイト
ーー何歳の頃にブラジルに行ったのでしょうか?
小学校5年生なので、10歳の時ですね。母が静岡駅の新幹線でめちゃくちゃ泣いていました。母とはそこでお別れをして、「空港まで来んのかいッ」て、思いましたけどね(笑)。
最初は父と一緒にブラジルに行って、僕の叔父さんにあたる人の家にステイしました。ブラジルに着くと、父は「では、お願いします」と一言残して、すぐ父は日本に帰ってしまいました。そこからは通訳がいるわけでも日本人が助けてくれるわけでもなかったから、もう僕もブラジル人になるしかなかったです。
ーー最初、言葉は全く話せなかったのでしょうか?
本当にちょっとだけしか話せませんでした。今考えたら全然話せてないに等しい状況だったかもしれません。なので、ラッパーがよく言う言葉じゃないですけど、“ストリートで全部覚えてきた”みたいな感覚でした。
ブラジルにも公文式があって、公文式でポルトガル語を勉強していました。でも先生からしたら、俺がどのくらいのレベルかわからないので、「monkey」や「apple」みたいな部分からスタートしてた記憶があります。「いや知ってるわ」って思いましたけど(笑)
ーーブラジルで学校には通わなかったのでしょうか?
最初は行こうと思ってたんですけど、様々なレギレーションをクリア出来ず、行けなくて。。なので、学校に入るまでは公文式でちょっと勉強してから、その後に行こうという感じだったのです。でも結局行けず。結局ずっと公文式のSkypeのオンライン授業で勉強をしていました。その時の先生が日本人の方で、唯一日本語を話せる機会だったので、気づいたらそのオンライン授業の時間が物凄く楽しみになっていました。
日本に電話するのも結構値段が高いから、頻繁には電話できなくて、本当に寂しかったですね。
ーー泣いていましたか?
ガンガン泣いていたし、泣きながら日本の音楽を聞いていました。父が、日本で流行っている歌をMDに入れてくれて、ブラジルに送ってくれて。その当時ちょうどゆずの「栄光の架け橋」がめちゃくちゃ流行っていた時でした。「栄光の架け橋」や「瞳を閉じて」などの人気の歌が入ったカセットテープをすり減るまで聞いていたのが懐かしいです。
そして、僕が曲を覚える前に、一緒に住んでいた従兄弟のブラジル人が「栄光の架橋」を全部歌えるようになったというオチもちゃんとあります(笑)。
ーーそのオチは面白いですね(笑)。マイトさんの歌にいつも癒されています。
その時から歌が好きになり、今ではYouTubeで歌わせてもらっています。
マイトさんのYouTubeはこちら
Maito Official Music Channel
→https://www.youtube.com/channel/UC6Hvv2fKMXG4L4EWaxoFXpA
▲ マイト:後方右から4番目
エヴァルトン:前方右から1番目
マウリシオ・アントニオ:後方左から1番目
アンドリュー・エリック・フェイトーザ(通称:モラト):前方左から4番目
ーーブラジルには何歳までいたのでしょうか?
中学校1年生なので、13歳の頃までです。
ーーブラジルと日本のサッカーは全然違うのでしょうか?
全然違う。本当に全然違います。本田圭佑選手がよく言っている「結局は個々なんですよね。」という言葉を10歳の頃から身近に感じることが出来ましたね。。
日本では、チームスポーツを教えられて協調性が大事にされがちですけど、ブラジルではみんなエゴイストです。全てのプレイヤーがヨーロッパに行くことを目標にしていますし、ポルトガルのチームやスペインのチームに移籍する選手もたくさんいました。
サンパウロFCのチームメイトだと、レアルマドリードに所属しているカゼミーロ選手や、トッテナムに所属しているルーカス選手、オスカル選手とかもいましたね。
写真には、去年まで浦和レッズにいたマウリシオ選手と、エヴァルトン選手がいたり、ヴァスコ・ダ・ガマのウィンガーとしてプレーするモラト選手もいます。この写真に写っている僕の周りの子は、だいたいプロになったと思います。
ーーそのスター選手と一緒にサッカーをしていたんですか?
そうです。一緒にプレーしてました。サンパウロFCの僕の代だとカゼミーロが一番有名です。練習試合の対戦相手のサントスFCにはネイマールがいましたし、SCインテルナシオナルには今バルセロナにいるコウチーニョもいました。今となっては、同い年(1992年生まれ)には凄い選手がたくさんいたんだなと思います。
カゼミーロ:ブラジル代表・MF。2013年からレアル・マドリードに所属。
ネイマール:ブラジル代表・FW。2013-2017年までバルセロナ、2017年からパリサンジェルマンに所属。
コウチーニョ:ブラジル代表・MF。2009-2010年 ヴァスコ・ダ・ガマ、2010-2013年 インテル・ミラノ、、2012年 エスパニョール(レンタル移籍)、2013-2018年 リヴァプール、2018年 バルセロナ、2019-2020年 バイエルン・ミュンヘン、2020年からバルセロナに復帰
ーー世界的にも凄い選手が沢山いる世代なんですね。ブラジル時代もまだ体型は太っていたんですか?
それが、1番の成長期がブラジルの時なんです。ブラジルで身長が一気に伸びて、体型も細くなって頭も小さくなりました。体型が変わってプレースタイルも変わりました。小さい時は重心が低かったから「ゴリゴリドリブラー」のような感じで、周りを吹っ飛ばしながらドリブルするタイプでした。でも、身長が高くなって細くなると重心が高くなるから転んじゃうんです。ハーフナーマイク選手がメッシみたいな動きをしようと思っても、できないと思うんです。それと同じ感覚ですね。そのかわり、脚が長くなってから走るのは速くなったのを覚えています。
▲ 清水エスパルスジュニアユースでプレーをする13歳のマイト
ーー13歳までブラジルに居て、日本に帰ってきた時はどこでサッカーをしていたんですか?
地元の清水四中と言う中学校に転校し、そこでサッカーしていました。いきなりブラジルから日本の普通の公立校に入れられるという(笑)。そして、その後は清水エスパルスのジュニアユースに入りました。
ーー日本に帰ってきた時のご家族の反応は?
実は日本へ行っても、ブラジルに戻る予定だったんです。日本にいた祖父が病気で余命宣告されていて、そのために日本に一時帰国することになりました。でも、日本に帰る飛行機の移動中に祖父が亡くなってしまったんです。「マイトによろしく」って言って亡くなったと聞かされました。そして日本に帰って来たら、母もずっと会えてなかったのが寂しかったようで「日本に残って」みたいな感じになってました。
サッカーの方も、清水エスパルスのジュニアユースの強化部や監督から「うちに来て欲しい」って連絡が来て、セレクションも受けないでいいし、入団を確約されてるチームがあるんだったら入ろうかなという気持ちも芽生えました。
他にも、久しぶりに日本食を食べて凄い美味しかったり、シャワーの水の出が良かったり、とにかく環境が良いということを実感しました。そして「ここは天国か」と感じながら、日本にそのまま残ることを決意しました。
あの時、環境の悪いブラジルの方を選んでたら、もしかしたらバルセロナとかレアル・マドリードとかに行っていたのかもしれないけど、やっぱり環境が良い方を選んじゃいますよ。でもそこで(環境に)甘えちゃって、清水エスパルスのジュニアユースで全然頭角を現せなかったんです。それが人生で初めての挫折でした。
ーー日本に帰ってきたタイミングで初めての挫折だったんですね。
そうですね。甘えちゃってたんです。「もうこれでいいや」という感情でサッカーをやってたと思います。
ブラジルでは身体が大きくて、スキルが高い選手とやってきた中で、清水エスパルスの練習の初日に「え、レベル低いな」と思っちゃったんです。レベルというか身体能力が低くて、「これ余裕だな」という感覚です。
でもそこからのチームメイトの成長に置いてかれちゃったんですよ。やはり日本人には、真面目さと謙虚さがあるから、みんなすごく伸びていました。気付いた時には「やばいやばい、ユースに上がれない」と気付き、人生初の挫折を味わいましたね。
ーー中学生の時は身長何センチあったのでしょうか?
中学校3年生の時には、もう183センチくらいありました。
ーーそれは凄く身長高いですね。中学生の時はポルトガル語しか話せなかったのですか?
そうですね。ブラジル人になろうとしてブラジルに行って、3年間でブラジル人になりきっちゃったんです。帰国してから、今度は完全に日本語が出てこなかったんです。学校では「外国人が来た」みたいな雰囲気になるし、日本人しかいないし、そこで日本語を学ぶしかなかったですよね。
ーーそうなんですね。マイトさんの中学時代の話を聞くのは初めてです。
はい、(以前までは)あんま喋りたくなかったんです。やっぱり良い思い出が全然なかったので。。
ーーそうですよね。急に環境が変わったわけですもんね。
しかも思春期の年齢で、全く違う文化で育った僕が(日本に)来ているわけですから。。
日本人の思春期とブラジル人の思春期では環境も考え方も全然違うんです。ブラジル人の思春期にはドラッグに走る人がいたりかなりの悪い環境でした。でも日本人はまた全然違う環境の中で、考え方なんかも違う。恋愛への考え方だったり、異性への接し方も僕だけ違いました。今思えばいじめられていたのかなと思うこともありましたね。
ーーマイトさんの恋愛事情のアーカイブ企画も面白そうですね(笑)。
それはもうNetflixに上がるから見といて(笑)。
ーー長編になりますね(笑)。人生初の挫折を味わった中学時代を経て、流通経済大学付属柏高校に入学するわけですね。
そうなんです。僕がブラジルにいる時に、サンパウロFCに研修で来ていた木本コーチという方が入学のきっかけでした。木本コーチのおかげで流通経済大学付属柏高校を知り、入学することができたんです。
サンパウロFC
1992年、1993年にトヨタカップ(現FIFAクラブワールドカップ)を連覇。「南米最強のクラブ」と言われた名門クラブ。また、サポーターの熱狂的ぶりなことでも有名。
ブラジル代表のレジェンドだったカフーやカカなどもプレー経験があり、ブラジル随一の強豪クラブとして君臨し続けている。
<中編へ続く>
〜次回配信予定日〜
中編:まさに“サッカー×ファッション”の申し子!モデル・三渡洲舞人が語る高校サッカーからプロサッカー選手までの道。 流通経済大学サッカー部からプロサッカー選手へ。サッカー選手になったからこそわかる、サッカー選手の凄さやリスペクトを感じたというマイトさん。中編もとても濃い内容となっております!ぜひ、お見逃しなく!