中編:〜ブラインドサッカーと出会ってからの変化と成長〜
「ブラインドサッカーに出会って、夢や目標を持つことができた」
ーー前編のあらすじ
小学生の頃にJリーグをテレビで観たことがきっかけでサッカーを始めた加藤健人氏。高校1年生までサッカーに打ち込み、その後はハンドボールに転身。ハンドボールの練習で痛めた目の検査をしたところ、視力が低下していく遺伝性疾患があることが発覚し、一度スポーツから離れることになった。高校卒業後は盲学校に入学するも、病気のことを受け入れられない状況から、3ヶ月ほどで休学を決意。引きこもりのような状態になっていた時に、両親が探してくれたのが「ブラインドサッカー」だった。ブラインドサッカーがあることを知った時に、加藤氏はどういう反応をしたのか。そしてブラインドサッカーによってどう人生が変わったのか。中編をご覧ください。
ーー最初に父親からブラインドサッカーがあることを提案された時の心境は?
加藤健人氏(以下、加藤):元々ブラインドサッカーというものがあることを知らなかったり、サッカー自体を諦めたりした過去もありましたが、ずっとサッカーが好きで、またやりたいという気持ちになりました。
ーーサッカーはずっと好きだったんですね。見学に行った時の印象はどうでしたか?
加藤:僕がしてきたサッカーとは少し違ったので最初はびっくりしました。
ルールは基本的にあまり変わらないのですが、アイマスクをつけてサッカーをする姿を実際に目の当たりにして、本当にこういう競技があるんだなという感覚でした。
見学の際に少しだけ体験させてもらったんです。なかなかうまくプレーができなかったですけど、筑波技術短期大学(現 筑波技術大学)の学生の方が多く所属していたチームで、年齢も近いのもあったのか、学生の方が一緒にやろうと誘ってくれました。
僕にとって、誘ってくれたことがすごく大きかったですね。当時の自分にとっては、必要としてくれること、誘ってくれたことが嬉しかった。何か行動を起こさなければという気持ちもあったので一歩踏み出すきっかけをもらえたという感じはありました。
ーー必要としてくれるのは嬉しいですよね。見学後はすぐ入ろうと思ったんですか?
加藤:はい。両親とも話し合い、僕がやりたいのであれば応援してくれるということでブラインドサッカーを始めることになりましたね。
見学をした次の年の4月、筑波技術短期大学に入学しました。
ーー茨城の大学ということは、寮生活だったのですか?
加藤:宿舎のような場所で一人暮らししていました。
学業の方は、盲学校時代と変わらないマッサージや鍼灸の勉強だったのですが、それもブラインドサッカーをするために、と思いながら勉強していたのを覚えています。
ーー実家を離れての一人での暮らしを始める際、ご両親は悲しがってましたか?
加藤:目の病気のこともあって心配はしていたと思います。でも、大学に行くこと自体は止められることなく、快く送り出してくれました。筑波に行ってから(心配で)何度も連絡はきましたけど(笑)。
ーーブラインドサッカーのチームにはどのくらい人数がいたんですか?
加藤:学生だけではなく、外部から参加する方もいたので、全部で10人ほどですね。そのほかにも、活動をサポートしてくれる方々がいました。
ーー学生だけではないということで、幅広い年代の方がいたと思いますが、居心地はどうでしたか?
加藤:居心地はよかったですね。中学高校と同じような楽しさを味わえました。
サポートにきて下さっていた方々が筑波大学の学生だったということもあり、(同年代同士で)楽しくできたと思いますし、その方々とは今でも繋がっています。
ーー大学時代のブラインドサッカーで大変だったことはなんでしょうか?
加藤:僕はずっとサッカーをしてきた経験がある中で、ブラインドサッカーを始めて、足元にボールがある時はなんとなくプレーできるのですが、一番難しかったのがボールを止めるトラップの部分でしたね。
トラップに関してはまずサッカーじゃないんですよ。視えない中でシャカシャカという音が鳴っていて、その音だけを頼りにどこにボールがあるのかということを察知して動いて止めなければいけないので、音だけというのはすごく難しかったですね。
音で生活することに慣れていなかったので、「視えてたらもっと簡単なのに」という葛藤はありました。サッカーをしていたら、止めることって簡単ですよね。
ドリブルをしたりボールを蹴ったりする方が難しいと思うのですが、誰でもできるようなことが急にできなくなるのは悔しかったです。
でも、負けず嫌いというのもあったのですが、ブラインドサッカーはやればやるほど上達していくのがわかるんです。トラップもそうですが、少しずつ(プレーが)出来るようになっていく実感もあったので諦めずに続けられたのかなと思いますね。
ーー練習の頻度はどのくらいだったんですか?
加藤:チームの練習だけではなく自主練もしていたのでほぼ毎日プレーしていましたね。
朝練習して、その後チームメイトと一緒に授業に行くなど、ほとんど部活と変わらないような頻度でプレーしていましたね。
ーーブラインドサッカーを始めた時のポジションはどこだったのでしょうか?
加藤:ブラインドサッカーは、ゴールキーパー1人とアイマスクしているフィールドプレーヤーが4人の5人がピッチ内、ピッチ外に監督と相手ゴールの後ろにいるガイドという立場の人の計7人がチームという形なんです。ピッチにいるフィールドプレーヤー4人が大体ダイヤモンド形の1-2-1のようなフォーメーションになっていて、僕はダイヤモンドの天辺に位置するトップのポジションが多かったですね。
最初は何もできなくて、難しかったんですけど、なぜか初めて出た試合でゴールを決めちゃうんですよね。クラブに入って半年後くらいの秋頃でしたね。
でも、シュートしたというよりかはドリブルで突っ込んだ形でした。そのまま進んだら入っちゃった感じでしたね(笑)。それが僕のブラインドサッカーで初めてのゴールでした。
それで、次の試合でなぜかハットトリックするんですよ。その時は、突っ込むだけではなくフリーキックやシュートでハットトリックをしました。2試合しか出ていないのですが、リーグ戦の新人賞に選ばれましたね。
ーーえ!すごいですね。結果が出たのはやはり入学後の自主練のおかげですか?
加藤:それもありますし、これまで(小学校から高校)のサッカー経験などが大きかったと思いますね。自由にプレーするまではいかないですけど、ある程度はプレーできましたね。
また、自主練に励んでいた理由としては、目立ちたかったというのもあります。当時、ブラインドサッカーはまだまだ狭い世界なので、僕のチームメイトは他のチームにたくさん知り合いがいるわけですよ。試合後などは、チーム関係なく世間話などで盛り上がるんですけど、僕は1年目だったので知り合いも少なく、傍から見ててすごく羨ましく思っていたんです。
それもあって、多少はプレーで目立って(自分のことを)知ってもらいたいなと思ってはいましたね。
ーーなるほど。茨城県内でブラインドサッカーのリーグがあったんですか?
加藤:茨城ではなく、関東リーグという形で他の県の方々と試合をするという形でしたね。
ーーでは、関東リーグの新人賞を獲得したということですね?
加藤:はい、そうです。規模はそんなに大きくないですけどね。
ーー日本代表に選ばれるのはもっと後ですか?
加藤:いや、結構早かったですね。元々ブラインドサッカー日本代表があることは知っていたので、やるからにはそこを目指してやりたいという気持ちは持っていました。
最初は、1年目の新人賞の活躍もあり、合宿などにも呼ばれるようになったのですが、僕よりも経験があって上手い人ばかりだったので、差を感じましたね。
2007年の大学3年生の時に北京五輪・パラリンピックのアジア予選があって、そこで初めて代表に選ばれました。合宿などに呼ばれることはあったのですが、ちゃんと大会メンバーに選ばれたのは(ブラインドサッカーを)始めて3年目でしたね。
韓国で北京五輪・パラリンピックのアジア予選が開催されたのですが、(今まで一回も)飛行機に乗ったこともなく、それ以外のこともほとんどが初めてづくしでした。一番印象に残ってるのは国歌斉唱です。国を代表して戦っているのだなと感じることができました。
ーー日本代表に入った時もポジションは同じトップですか?
加藤:はい。ダイヤモンド形のトップをやりました。
ーー代表の選手はやはり上手いのでしょうか?
加藤:そうですね。やっぱり皆さんスキルや経験もあって、すごく上手かったです。
ーーそうですよね。そこで苦しかったこととかはあるのでしょうか?
加藤:僕のことは、年齢的にも若くサッカーの経験などもあったので(代表に)選んでもらっていたと思うのですが、最初に大会メンバーに選ばれた北京五輪・パラリンピックのアジア予選は、試合に出る時間もすごく少なかったです。
緊張で思ったように動けなくて終わっちゃったなという感じで、日本代表も結果を出せずパラリンピックの出場権を逃してしまう形になってしまったのが最初の代表活動でしたかね。本当に何もできなかったって感じですね。
あとは、最初から日本代表になりたいという気持ちは持っていたのですが、その後についての目標などは持っていなかったんです。日本代表になってどうなりたいとか、どんなプレーしたいかとかが明確にあったわけではありませんでした。正直日本代表になってからではないとわからないことが多かったので、日本代表になりたいという目標だけでは厳しいなという感じでしたね。
ーーその後、日本代表としての目標は立てられたんでしょうか?
加藤:はい。日本代表として、チームの勝利に貢献できる選手になるという目標を立てました。
自分が持っているところは伸ばしつつ、できないところも伸ばしていかないと貢献できないなと思ったので、それまでよりもっと練習しましたね。
ーーそれが形になり始めたのはどのくらいですか?
加藤:精神面で変わり始めた時があって、それが2009年頃ですかね。2008年に北京五輪・パラリンピックがあって、日本代表は出場できませんでした。その後、久しぶりの国際大会で2009年にアジア選手権があって、この大会が(ブラインドサッカー界で)初めて日本で行われた国際大会だったんですよ。
2009年頃には、自分も代表での出場が増えていて、スタメンで出ることも多くなってきていました。そこで初めての国内での国際大会ということで応援にきてくれる方々も多くいてサポートしてくれている人たちのことを感じて応援してくれる方々がいるんだなと感じて今までは自分の夢とか目標に対して頑張ってたんですけど、実際に応援してくださっている方々のためにというかその人たちに感謝の気持ちじゃないですけど結果やプレーで答えなければと思いましたね。
その時に気持ちの面では変わっていったかなと思いましたね。
ーー選手として結果が伴ってきたのはいつぐらいからなんですか?
加藤:2009年以降は少しずつメンバーも変わったりで試合に出ることも多く、活躍とまでは言えませんが出場時間が増えたりということで変わってきたかなとは思います。
2009年のアジア選手権、2010年の世界選手権にも多くの時間出場できました。2007年以降の国際大会にはほとんど出場してきましたね。
目に見える結果でいうと、2014年で韓国で行われたアジアパラ競技大会で2位を獲得したこと、日本で行われたブラインドサッカー世界選手権で日本代表が初めて世界大会で勝利と予選突破をしたことはプレイヤーとしても、日本の結果としてもよかったかなと思いますね。
ーー改めてブラインドサッカーをしていてよかったと思うことは?
加藤:夢や目標を持つことの大切さを感じられたことです。高校生の頃に視覚障害を患った時、「自分はこれから先何もできないんじゃないか」と思ったんですよ。それでも、ブラインドサッカーに出会って、夢や目標を持つことができた。もう無理だと思ってしまうとやっぱり何も始まらないですよね。
なので、「こうなりたい」「あんな風になりたい」という夢とか目標を持って、それに向かってどう頑張るかっていうところが大切なのかなと思いますね。
そのような考え方の中で、僕が大切にしている言葉が「始めなければ始まらない」という言葉。
やる前にできるかできないかを考えるのではなく、まずは挑戦してみることが大切なんだなっていう部分は、ブラインドサッカーを通じて教わりました。
ーーなるほど。やはりブラインドサッカーに出会えたことは加藤さんにとって大きいんですね。
加藤:そうですね。視力が低下してきて、「自分はこれから先何もできないんじゃないかな」と思っていた時にブラインドサッカーと出会い、実際にプレーしてみたことで意外とできることって多いんだなと思えました。
目が見えない中で大変なことや不便なこともあるんですけど、工夫してみるとできることもあったり、周りの方々の協力やサポートを受けてできることもあったり、それが一番わかりやすいのがブラインドサッカーかなと思います。
練習すればするほどできるようになりますし、サポートしてもらうことでできることもあるのでブラインドサッカーに関わっている人たちのおかげで自分がいると思いますね。
ーー人との出会いはとても大きな財産ですよね。
加藤:はい。人との出会い、人との繋がりが僕にとっては大きかったと思います。
極端に言ってしまうと、病気にならずに目が見えていたままの自分がいたら、こんな経験はしていなかったと思います。
もしかしたら学校と家の行き来だけ、会社と家の行き来だけという生活を送っていたかもしれない。ブラインドサッカーを通して、目が見えていた中では出会えなかった人たちと出会えたりできたには大きかったです。
病気になって良かったとまでは言えないですが、また違った世界が見えたことはよかったですね。
ーーブラインドサッカーを教えてくれたご両親にも感謝ですね
加藤:その通りです。両親がブラインドサッカーがあることを教えてくれてなければ何も始まらなかったわけですから。
<後編へ続く>
前編:〜目が見えていた頃のサッカー人生、そして高校3年生で病気が発覚し、視力が低下し始めてからの葛藤〜「自分の中で病気のことをまだまだ受け入れられていない時期もありました」
後編:〜バランススタイルと出会ってからのファッションの変化、そして欠かさないバランスタイムズのチェック〜「どれが良くてどれを合わせていいのかはすごい参考にしているのでバランスタイムズは重宝しています」