前編:〜名門市立船橋高校でのエピソードから、膝の怪我をしてサッカーを断念した大学時代〜
「布先生(当時の市立船橋高校サッカー部監督)から直接電話が掛かってきて「俺と一緒にサッカー3年間やらないか」と優しく勧誘されて、騙された」
ーー何歳からサッカーを始めたのでしょうか?
ワッキー氏(以下ワッキー):僕は転勤族で、北海道出身だったんですね。サッカーを始めたのが、1回目の千葉県船橋市に住んでいた時で、小学校3年生だったときでした。
ーーなるほど。その後転勤を繰り返していた中で、高校は市立船橋高校に入学したんでしょうか?
ワッキー:そうです。中学校3年生の時に船橋に戻ってきたので。
ーーなぜ市立船橋高校サッカー部に入部しようと思ったのでしょうか?
ワッキー:中学校3年生で船橋に帰ってきた時に、中学校のサッカー部に所属することになりました。その後すぐ船橋市の選抜に選ばれて、月1回か2回の活動だったんですが、その活動を市立船橋高校サッカー部のグラウンドで行っていたんです。
いわゆる品評会のようなものですね(笑)。
ーー選抜で上手い子がいるか選んでいるわけですね。
ワッキー:そうそう。そこで布啓一郎先生の目に止まって、直接電話が掛かってきて「俺と一緒にサッカー3年間やらないか」と優しく勧誘されて、騙されてっていう。
ーー騙されたんですね(笑)。その頃から市立船橋高校サッカー部は全国的に名門校だったのでしょうか?
ワッキー:32、3年前なので、全国大会に出場し始めたくらいでしたね。
ーーそうなんですね。まだこれからという時に布先生に誘われたわけですね。
ワッキー:「誘われた」っていうか「騙された」ね(笑)。
ーーそうでした(笑)。他の高校からのお誘いはあったのでしょうか?
ワッキー:それがね、あったんです。東海大浦安高校のセレクションに行った時に内定のような言葉はいただいていたのですが、そこは蹴りましたね。
市立船橋が家から近かったのも選んだ理由の一つですね。家から自転車で10分で着く距離だったので。加えて、サッカーでも県内でも1、2番を争うくらいまで成長してきていたので、どうせやるなら強いチームでやりたいなと思って市立船橋に入学しました。
ーー当時はどこのポジションをやられていたのでしょうか?
ワッキー:FWですね。
ーーどういうタイプのFWだったのでしょうか?
ワッキー:結構テクニシャンタイプでした。テクニックあって、スピードあって、身体能力が高かったですね。
自分で言うのもなんだけど、オールラウンダーなプレイヤーだった(笑)。
ーーなるほど。市立船橋サッカー部で厳しい練習をやられていた思うんですが、1番印象に残っているエピソードはありますか?
ワッキー:ありすぎるけど、1番覚えてるのは福島の山奥である夏合宿ですね。その中でも、練習中に水を飲めなかったのは1番きつかったですね。
早朝練、午前練、午後練の3部練なんですけど、猛暑の中で水も飲めずにみんな意識朦朧としていましたね。
でも、そこに食堂のおばちゃんがご厚意で差し入れを持ってきてくれたの。みんなで「なに、麦茶?スイカ?」って期待に胸膨らましてたんだけど、それがきなこもちだったのよ(笑)。
ーーきなこもち(笑)。喉カラカラなのにですね。
ワッキー:そう!(笑)。喉カラカラなのに、きなこに全部水分持ってかれて、その時に勿論、水も飲めないから罰ゲームみたいになっていましたね。
ーーそれは悲惨でしたね(笑)。他にも厳しいルールやしきたりといったものはありましたか?
ワッキー:これといって厳しかったルールなどはなかったと思います。強豪校だと上下関係が厳しいイメージもあって、先輩が後輩に理不尽にいじめるというのが昔は多かったと思いますが、市船はそういうことはなかったですね。
なんでかと言うと、そんな暇がないから。とにかく身体を休めたくて、そんなパワーが残ってなかったんだと思います。
とりあえず、一致団結して、「選手vs鬼監督」っていう構図にならないと練習に立ち向かっていけなかったんですよ。
ーーサッカーのことで一杯一杯で、サッカーのことしか考えられなかったんですね。
ワッキー:そうですね。1日1日の練習をクリアすることだけに焦点を絞ってました。毎日練習があって休みなんて年に2回しかなかったです。
ーーえ!休みが年に2回ですか!?
ワッキー:そうなのよ(笑)。しかも休みの日も前もって言ってくれないんだよね。いつも、キャプテンが先生に練習メニューとかを聞きに行くのですが、休みの時は部室に戻ってきて、「今日休みになったぞー!」って伝えてくれるんです。
みんなで騒ぐほど喜んでたのは鮮明に覚えてます。先輩なんて喜び過ぎて、部室の天井に頭がめり込んで穴を開けていたからね(笑)。でも、その後普通にジャンプしてもその天井には届かなかった。休みの時は、人間の力では考えられないくらいのジャンプをするほど嬉しかったんでしょうね。
ーーそんなことがあったんですね(笑)。1日の練習時間ってどれくらいあったんですか?
ワッキー:練習はね、長くやっても3時間くらいでした。
ーー今の時代とあんまり変わらないですね。練習内容がハードだったんですか?
ワッキー:はい。練習メニューは走ることが多かったですね。
ーーそれはハードですね。ワッキーさんの時は全国大会に出場しましたか?
ワッキー:僕の代は、インターハイ、選手権どちらも全国大会に出てたけど決勝までは行けなかったです。個人的には千葉県の国体代表に選ばれて全国優勝を果たしたことはありますけど。
選手権は2回戦で負けてしまいましたが、対戦チームが清水商業高校だったので今でも鮮明に覚えています。
あの年の清水商業高校は、高体連の歴代のチームの中で1番すごい人達が集まってたっていう伝説のチームだったんですよ。
ーーどんなチームだったんですか?
ワッキー:僕らの時代はJリーグがなかったのですが、後々そのチームの11人中9人がJリーガーになっていました。しかも、その内4人が日本代表に選ばれてたんです。
ーーその4人は誰でしょうか?
ワッキー:山田隆裕、名波浩、望月重良、大岩剛です。
まず、日本代表が1つのチームから4人出るなんてそうそう無いですから。すごいでしょ?
そのチームと戦って1対1でPKで負けました。
ーーそんなチームとほぼ互角で戦っていたのなら、試合後の反響もすごかったんじゃないですか?
ワッキー:すごかったです。めちゃくちゃ頑張った方だと思う。
その時の戦術なんだけど、僕がDFでエースにマンマークでつくことでした。清水商業のエースは名波で、ボールは一切見ずにずっと名波だけ見て、ストーカーみたいに張り付いてましたよ(笑)。
でも、その戦術のおかげで1対1までもつれ込むことができたんだけどね。
※山田隆裕氏:清水商業高校で1年次からレギュラーに定着。2年生の頃に日本ユース代表に選出されるなど、将来を渇望されていた。日産自動車に入部し、その後横浜マリノスやヴェルディ川崎で活躍。2003年にベガルタ仙台で引退した。
※名波浩氏:清水商業高校時代に、高校総体とユース選手権を制覇。順天堂大学サッカー部を経てジュビロ磐田に加入し、黄金期の中心メンバーとして活躍。日本代表でも10番を背負い、ファンタジスタとして日本サッカーを牽引。引退後はジュビロ磐田の監督を経験し、2021年シーズン途中に松本山雅の監督に就任した。
※望月重良氏:清水商業高校卒業後は、筑波大学蹴球部に入部。在学中にユニバーシアード日本代表に選出され、卒業後は名古屋グランパスエイトに入団。日本代表にも選出された経歴がある。ヴィッセル神戸や横浜FCなど7クラブを渡り歩いて引退。現在はJ2に所属するSC相模原の代表としてクラブ経営をしている。
※大岩剛氏:清水商業高校を卒業後、名古屋グランパスエイトに入団。初年度から主力として活躍し、日本代表にも選出。その後、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズを渡り歩き、鹿島アントラーズではリーグ3連覇を経験。引退後の2017年には鹿島アントラーズの監督に就任し、3年弱務めた後、2021年からはU-18日本代表の監督に就任している。
ーーそうなんですね(笑)。ワッキーさん自身もかなり話題になったんじゃないんですか?
ワッキー:新聞に載ってました。「これだけ市立船橋が頑張れたのは、脇田が名波を抑えてたからだ。」って書いてあったんですよね。
ーーやはり、そこがキーポイントだったんですね。名波さんとは現在も交流はあるんですか?
ワッキー:交流はありますね。たまに電話がかかってきたり、ご飯もよく食べに行ってます。未だにマンマークしてますね(笑)。
ーーやっぱり実際に、歴代最強と言われたチームと戦ってみて強かったですか?
ワッキー:めちゃめちゃ強かったですよ。特に山田隆裕。あの選手がドリブルしたら3人で止めに行ってました。ほんとにすごい選手ばかりが集まっていましたね。
ーーすごいですね。やっぱりワッキーさんもプロを目指していたんですか?
ワッキー:僕らの時代はプロチームがなかったから、プロを目指すという考えがなかったです。高校卒業したら大学でやるか、実業団でやるかの2択でしたね。
僕は、専修大学のサッカー部に入部しました。本格的にサッカーをやるんだったら実業団に入る人が多かったですね。
ーーそうなんですね。ワッキーさんが専修大学を選んだ理由は何ですか?
ワッキー:一応、大学を出ておかなければいけないかなと思って入りましたね。この言葉はあまり言いたくはないけど、燃え尽き症候群っていう部分はあったと思います。
その時代は、日本のサッカーシーンの中で1番華やかなのは“高校サッカー”だったんだけど、プロチームはなくて、大学行ってもTVで注目はされないから、高校3年間が終わったらサッカーに対する情熱っていうのは軽減するよね。僕の場合は、それもあって大学1年生で辞めました。
ーー1年生で辞めたんですね。何か理由があったんですか?
ワッキー:サッカーを11年間やってたのですが、その内9年はずっと膝が痛かったんです。
ーー何の怪我ですか?
ワッキー:最初の頃は、小学5年生でオスグッド病になって、市立船橋に入ってからはジャンパー膝という慢性的な怪我を患って、両膝がずっと痛かったですね。
大学に入って色々な病院を周ったのですが、ほとんどの医者に膝の痛みを我慢してサッカーを続けるか、痛みを取りたいならサッカーを辞めるしかないって言われましたね。
ーー手術の選択肢は無かったのですね。
ワッキー:膝の構造上、手術とかの問題じゃないって言われんですよ。この痛みと一緒にサッカーを続けていくのは無理だと思って、サッカーを辞めて大学の寮を夜逃げししました(笑)。
ーー夜逃げですか(笑)。何で夜逃げしたんですか?
ワッキー:同期や先輩、寮は好きだったけど、サッカーをできないのにそこ(サッカー部)にいるのが辛かったのが1番ですね。
サッカーではなく違う世界のことを見てみたいなと仲間に伝えたら、絶対引き止められると思って夜逃げしましたね。
ーーなるほど。同期から心配の連絡とかは来なかったんですか?
ワッキー:心配して連絡くれましたよ。でも、戻れないって伝えました。当時のキャプテンとかにも怒られましたけど、辞める覚悟を持って夜逃げしたので戻りませんでしたね。
ーーしっかりとした覚悟があったんですね。サッカー部を辞めた後の生活はどうしてたんですか?
ワッキー:一応、大学2年生から卒業の年まではサッカー部に籍は置いていました。一度も練習には行かなかったですが。サッカー部を辞めるときは、親にもしっかり事情を話して、僕の意見を尊重してもらってやりたい事を模索していました。そして、3年後芸人になってましたね。
<中編へ続く>
中編:〜芸人へなるきっかけのエピソードから、サッカー大好き芸人としてJリーグを盛り上げる活動に迫る〜「『サッカー+お笑い』で盛り上げることが僕の使命だと思っていますね。」
後編:〜突然発覚した癌との闘病生活、その闘病生活を支えてくれた“Jリーグ”〜「僕は本当に幸せ者だと実感して、勇気をもらいましたね。」